待望の「局所処理」が可能になったRawTherapee5.9がリリースされた。
機会があったので使ってみた:
上がオリジナルの写真である。背景に緑色のごみ箱が写ってしまっている。この部分を背景の色で置き換えてしまう。これはRawTherspeeでやってみた。
ごみ箱はほとんど目立たなくなった。
待望の「局所処理」が可能になったRawTherapee5.9がリリースされた。
機会があったので使ってみた:
上がオリジナルの写真である。背景に緑色のごみ箱が写ってしまっている。この部分を背景の色で置き換えてしまう。これはRawTherspeeでやってみた。
ごみ箱はほとんど目立たなくなった。
陳舜臣氏の著作「中国名言集:弥縫録」を読み直している。
「門前雀羅(もんぜんじゃくら)を張る」という成語がある。「門前市を成す」というよく知られた成語があるので、それと似たような表現かなと思ってしまうが、それと反対の意味を持つ成句である。
雀羅は雀を捕獲する網のことで人の出入りのないところにその網を張る。つまり門前が雀羅を張れるような静かなところになっているということを表現したものである。
マイナ保険証が大きな問題になっている。極めて大きな影響が国民全体にかかる問題だからだ。大きな機構の変更には様々なミスが不可避である。「人為的なミス」も機構の変更上のミスである。大事なことはそのようなミスが起きたときにはどうするかを事前に検討して置くことである。ミスによに不利益にたいしても補償をすべきである。このように膨大な課題に無頓着なのはよほど
「デジタル無謬神話」に毒されているに違いない。デジタル処理は人間の「マチガイ」を「タダシク」実行するものである。
河野太郎デジタル相はこの機構の変更を通じて国民全体がデジタル化の恩恵を受けれるようになると強調している。この親切心の押し売りの極みはこの親切を断るとペナルティーが課せられることである。
マイナ保険証はもっと大きな問題を含んでいるようにおもう。マイナンバー・カードを保険証代わりにする制度は目的ではなくて、「普及」のための手段だ。そのせいか政府の取り組みは極めて安易なものになっている。現行の紙の保険証は「保険者番号」と「非保険者番号」でその保険証が唯一無二であることを保証している。名前や住は利用者の便宜のためにすぎない。そんなデータを「紐づけ」のキーとすることが間違いだ。最近では政府はマイナ保険証を使うときには紙の保険証をも持参するようにと勧告している。???がいっぱいだ。
またマイナンバー制度とマイナンバー・カードとは違うとも弁解している。
マイナンバー・カードの強権的「普及」策によって申請が増えてきてマイナンバー制度の骨幹をなす個人情報の厳密な管理・運用が全くできていない、
そのことが明るみにでたわけだ。システム設計の根幹に関わる問題である。
なぜそれまでしてマイナンバー・カードを普及させたいのであろうか?
マイナンバー制度には巨額な国費がつぎ込まれており、世界的にグーグルやアップルに大きく水をあけられてしまった日本のIT大企業にとっては独占的に儲けることができる機会である。「普及」すればするほど収益が得られる。
また国が管理する個人情報をマイナンバー制度を期に民間利用ができるようにする規制緩和が目論まれているからだ。
さらにまたこれを期に国民にたいする行政サービスを画一的(つまりデジタル化に対応できない国民の切り捨て、デジタル化に対応できない住民サービスの切り捨て)にしようとする意図も見える。
「任意」を「強制」にすり替えるマイナ保険証の仕組みは撤回すべきである。そして真に国民の利益になる「デジタル化」とは何かを再検討すべきである。
久ぶりの新聞の記事である。
奈良公園にいるシカは野生動物であるが観光客から「シカ煎餅」をもらうなどヒトとの交流が深い野生動物である。「シカ煎餅」をもらうときぺこりと頭をさげるような仕草をする。コロナの影響で観光客が減ってヒトとの接触が減った結果この「おじぎ」仕草の習性が退化してきているという記事である。
この調査は奈良女子大学と北海道大学の研究チームによる。
画像はここ。
昨日は仙台青葉まつりにいってみた。20日から始まったもので、初日は「スズメ踊り」で昨日は「山鉾巡行」があった。かなりの人出であった。
昨日が前日が雨で曇り空という花を撮るにはよい天候だったので仙台の農業センターに行ってみた。
野草園で撮った「チングルマ」と「オキナグサ」の綿毛でsる。特に「チングルマ」の綿毛は不思議な雰囲気であった。
昨日は天気もよかったので再度野草園に行ってみた。ハンカチの木が見事に「花」を咲かせていた。
後漢(西紀元1~2)年の張衡は
「太陽に相対する衝で光がいつもあたらないのは地に蔽われているのである。」とかなり正確な月食の理解をしている。しかしこの理解は後世に伝わらなかったようである。
「朱子の自然学」(山田慶児著)によればある人が「月の中の黒い影は地の影ですか。」と朱子にたずねたののたいして朱子は
「先人にその説がある。考えてみると道理としてはありえよう。………太陽は月の本体にその光をあてりが中間にある地は一塊の実なるものだからその黒いかげりができるということだろう。」
と答えている。地が球形をしているという理解があればこの説明は説得的である。