ウマはホース(15):シャギャ・アラブ

今回はオーストリア・ハンガリー帝国時代のハンガリーで飼育されていたシャギャ・アラブ(Shagya Arab)である。画像はここ

この時代にハンガリーの最大の繁殖牧場で飼育されていたウマの中で最も著名なウマがシャギャ・アラブである。このウマは類稀なハンガリーの軽騎兵の乗用馬の質と量とも負っていた。現生のシャギャ・アラブはその祖先と同じ実用であるが、騎乗ばかりでなく引きウマとしても使われている。

シャギャ・アラブの生産の中心地は1789年の創設されたバボルナ繁殖牧場であった。1816以降は純粋な「砂漠」のアラブ種の生産に傾いており、「アラブ種競馬」の半血種の生産が増加した。これらのウマはスペイン種、ハンガリー種およびサラブレッドの系統をひく牡ウマと卓越したアラブ種の牝ウマの交配によったものであり、その基礎になった牡ウマの名前シャギャの名前を引き継いだ。

シャギャは体型も性質もアラブ種であるが現生のアラブ種より大きい。き甲がより顕著で強力な肩はより傾斜している。アラブ種では後肢がよく批判の対象になるが、シャギャにおいては概ね正常である。

夏越祓(なつこしのはらい)

もう一つ古式の雰囲気を残す夏の祭りを紹介したい。それは夏越祓(なつこしのはらい)である。

縄解きの神事が始まる。神前に供えられいた短い縄の山が神官たちによって参拝者に配られる。一人に二本ずつ、一本は右より、もう一本は左より。祝詞が詠まれる。参拝者はみな右縄の一端を口にくわえ、右手で縄の撚りを解く。また祝詞が詠まれるが、今度は左縄で同じことをする。すっかり解けてしまった縄で体にあちこちをさする。これによってその人の災厄や不祥の全てが縄に移される。この縄はあとで人形(ひとかた)とともに川に流される。

川原に祭壇が作られている。その祭壇には人形が置かれている。人形は白紙に人形を黒や赤で画いたものである。この人形がさきほどの縄と一緒に川に流される。これが夏越祓(なつこしのはらい)である。

人形を流す風習は平城京の時代でも知られている。穢れやそれを浄める祓いは古い時代からあったわけである。

七夕祭:乞巧奠(きつこうてん)

七夕祭は女子のお祭りだった。平安朝には乞巧奠(きつこうてん)といわれ盛大なものであった。「宇津保物語」には

「七月七日になりぬ。賀茂川に御髪すましに大宮より始め奉りて、小君たちまで出で給えり。賀茂の川辺に桟敷うちて男君たちおはしまうさず、その日の節供川原にまいれり、君達御髪すましはてて、御琴しらべて七夕に奉り給ふほど….」

とある。琴を鳴らして奉納する対象は七夕で牽牛、織女の二星である。ここには中国の七夕伝説の影響があるが、川辺に桟敷をつくり、そこで髪を洗い浄め、食事もそこでとるということは水神に奉仕する巫女のことである。つまり夏にはその力を発揮する水神のため、おとめたちは桟敷ー棚(たな)ーを設けて神に仕えた。棚には織機ー機(はた)-がすえられ、おとめたちは神に捧げる神衣を織った。これが日本のタナハタであった。

ウマはホース(14):フリオーソ

今回もハンガリーの馬でフリオーソ(Furioso)である。画像はここ。フリオーソはイタリア語で「激しく」という意味で馬の名前によく登場するが、ここでは品種としてのフリオーソである。

フリオーソは前回のノニウスと深い関係にあるウマの品種であり、オーストリアからポーランドまで広くヨーロッパ中で飼育されている。フリオーソはまた騎兵用のウマとしても飼育されていたが、ノニウス以上に品種改良が進んでいる。

フリオーソ種は二頭のイギリス産の馬、FuriosoとNorth Starをノニウスの牝馬に交配させたことを起源としている。1840年ごろ導入されたFuriosoはサラブレッドであったし、その3年後導入されたNorth Starは1834年のセントレジャース(St.Leger)競馬の勝利者Touchstoneの息子であったが、Norfolk Roadsterの強い影響もあった。

フリオーソ種はヨーロッパレベルの障害物競走を含めさまざまな分野の競技で活躍する能力を持った騎乗馬である。また引きウマ競技でも活躍している。

 

輓馬(ばんば)の歌

新聞に詩稿「輓馬(ばんば)の歌」を書いた久保克彦の評伝の記事がのった。久保克彦は『図案対象』という作品を残した戦没画学生で未完の詩集「輓馬(ばんば)の歌」を遺した。

藤田嗣治が「右腕はお国に捧げるつもりで戦争画を描け」と言った時代に明確な反戦の意思を持った詩稿「輓馬(ばんば)の歌」を書いた。そこには数しれない輓馬の隊列が「怠惰な戦争の続いている/黄土の大陸の方へと進んで行く」と、ひとり馬にあらず全ては日中戦争に向っている状況への抗議となっている。

この25歳で戦死した久保克彦の『図案対象』は戦争の無意味さ、文明の脆さを象徴する作品となっている。この作品はかれの母校、芸大美術館が所蔵している。

評伝の著者は久保の甥である木村亨氏で「輓馬(ばんば)の歌 《図案対象》と戦没画学生・久保克彦の青春」(図書刊行会:2019)。

ウマはホース(13):ノニウス

今回からハンガリーの馬を取り上げる。最初はノニウス(Nonius)。画像はここ

ノニウスは19世紀に広大なオーストリア・ハンガリー帝国の牧場でヨーロッパ中の騎兵の新馬を供給したときにその絶頂期に進化した。

この品種はNonius Seniorを起源としている。この馬は1810年ノルマンディー地方のカルヴァドス(Calvados)で誕生し、1813年にハンガリー人たちに獲得された。かれはNorfolk Roadsterとの半血種であったイギリス産馬、Orionとノルマンディー地方の普通の牝馬とによって誕生したものである。この品種はアラブ種、リピッツァナー、ノルマンディー、そしてイギリス馬を子孫とする牝馬とノニウスの牡ウマにまで戻れるノニウスの牡ウマとによって得られたものである。1860年代、サラブレッドの血統が導入された。今日ではノニウスはハンガリーのホルトバージとチェコのトポイシアンキーで生産されている。

ノニウスは優秀な体型で大人しい。曳きウマとしても騎乗馬としても高速ではないが、多目的で優秀なウマである。

ウマはホース(12):ラインランド

今回はドイツのライン川沿いで飼育されているラインランド(Rhinelander)を取り上げる。画像はここ

重量馬であった旧ラインランドは多くをブラバント種に負っておりラインランド、ヴェストファーレンそしてザクセン中で普通の作業ウマであった。それ以来農作業に従事することが長い間続いたので品種が曖昧になり現在ではもはや確認することが困難になった。しかし血統台帳はこの重量馬をとくにその中の軽い系統を基礎に温血種の乗用馬に移行してきた。

19世紀に騎乗または乗用を目的としたウマの生産プログラムが設定された。それらのウマはサラブレッド、トラケナーそしてハノーバーそれとはっきり確認できないが旧ラインランドからなるハノーファー・ヴェストファーレン地区内の牡ウマを父親とした。現生のラインランドは混血から誕生した選択された半結種の牡ウマたちを基礎に生産されている。

 

ウマはホース(11):ヴュルテンベルク

今回のウマもドイツとウマであるヴュルテンベルク(Wurttemburg)である。画像はここにある。

ヴュルテンベルクはドイツの古典的な温血種の一つで、マールバッハにあったドイツ最古の国営馬産牧場で一世紀以上に亘って系統的に馬産が行われてきた。この牧場は1573年にクリストフ・フォン・ヴュルテンベルク(ヴュルテンベルク公国の君主)により創設され、十九世紀の初めにはウマの全頭数は81,000を越えた。

ヴュルテンベルクは腹帯に沿って深い溝があるがっちりとした乗用馬である。強靭な脚、華麗な動き、欠陥のない体型は特筆すべきこがらである。逞しい馬であるが、長寿で飼育にはことの他経済的である。

ポルシェのエンブレムにはこの馬が描かれている。

ウマはホース(10):ハノーヴァー

今回のホースはハノーヴァー(Hanoverian)である。画像はここ

障害飛越や馬場馬術の競技においてドイツの競技馬の先頭にあるのがハノーヴァーである。

選択的な馬産はジョージ二世のとき1735年に始まった。ハノーヴァー選帝侯とこのイギリス国王はツェレ(Celle)馬産牧場を創設した。最初、農耕の多目的なウマとして14頭のホルスタインの牡ウマたちと地元の牝馬のとの交配が進められた。その後品種改良のためサラブレッドとの交配が行われた。

第二次世界大戦後には馬産の目標が競技馬の生産に向けられるなり、トラケナーやサラブレッドとの交配が、注意深く進められた。

厳格な選択基準の結果、抜群に力強く、動きの正確なウマたちであり、優秀な気質の持主である。