ウマはホース(17):カマルグ

今回のウマはフランスのウマである。その名もカマルグ(Camargue)。画像はここ

「海の白馬」の名称を持つカマルグ馬は南フランスのローヌ川の三角洲にいる固有種である。半野生(Manade)のこの種は塩分を含んだ風(mistral)が支配する湿地という環境の野生で数千年の間生息したと同じような姿で現在の生息している。カマルグ馬はカマルグ・カーボーイ(gardian)によって騎乗され、カマルグに生息する野生の黒ウシの管理には不可欠である。

カマルグ馬は19世紀のその生き残りがソルトレで発見された先史時代のウマの後裔であるかもしれない。確かに、このウマは紀元前約15,000年のラスコーの壁画に画かれているウマに似ている。この固有種はムーア人の侵入によって北アフリカからもたらされたバーブ種の影響を受けていると断言できる。その後はこの半野生(Manade)地は外からの影響を受けなくしているのでこの地域の隔離は確実なものとなっている。

模範的な体型とは言い難いが、この品種は強靭で耐久力がある。信じ難いほど逞しく生育の遅れたアシの湿原をエサに生命を維持できる。動きは独特である。常歩、駈歩、襲歩は自由闊達であるが、速歩はぎこちないので滅多に使わない。

 

ウマはホース(16):リピッツァナー

今回はウィーンのスペイン乗馬学校で有名なリピッツァナー(Lipizzaner)を取り上げる。画像はここ

スペイン乗馬学校で有名なリピッツァナーはオーストリアのグラーツの近くにあるピーバー繁殖牧場で育てられている。この品種はハンガリー、ルーマニア、チェコ、そしてスロベニアで精力的に生産されている。ヨーロッパにほかの地域でも数は少ないが生産されている。

リピッツァナーはスロベニアのリピカにある繁殖牧場から名前が由来しているスペイン馬の後裔である。この牧場はオーストリア大公、カール二世が9頭の牡馬と24の牝馬をイベリア半島から導入した1580年に創設された。彼はグラーツの公爵牧場やウィーンに宮廷牧場を見栄えのする葦毛の馬でいっぱいにしたかった。「スペイン」馬に由来するスペイン乗馬学校は貴族ための訓練のため1572年に創設された。冬宮にある現在の乗馬学校は1735年に完成した。

リピッツァナーの体型は多目的に有用なコブのそれである。今日ではリピッツァナーは騎乗馬と同様に引き馬としも有用されている。ハンガリーで生産されている種は優秀な馬車馬で、サラブレッドの影響はあり動きは多様で自由度が大きなものになっている。この馬は長寿で、乗馬学校の馬たちは二十歳を過ぎても難しい演技をこなすことができる。

 

ウマはホース(15):シャギャ・アラブ

今回はオーストリア・ハンガリー帝国時代のハンガリーで飼育されていたシャギャ・アラブ(Shagya Arab)である。画像はここ

この時代にハンガリーの最大の繁殖牧場で飼育されていたウマの中で最も著名なウマがシャギャ・アラブである。このウマは類稀なハンガリーの軽騎兵の乗用馬の質と量とも負っていた。現生のシャギャ・アラブはその祖先と同じ実用であるが、騎乗ばかりでなく引きウマとしても使われている。

シャギャ・アラブの生産の中心地は1789年の創設されたバボルナ繁殖牧場であった。1816以降は純粋な「砂漠」のアラブ種の生産に傾いており、「アラブ種競馬」の半血種の生産が増加した。これらのウマはスペイン種、ハンガリー種およびサラブレッドの系統をひく牡ウマと卓越したアラブ種の牝ウマの交配によったものであり、その基礎になった牡ウマの名前シャギャの名前を引き継いだ。

シャギャは体型も性質もアラブ種であるが現生のアラブ種より大きい。き甲がより顕著で強力な肩はより傾斜している。アラブ種では後肢がよく批判の対象になるが、シャギャにおいては概ね正常である。

ウマはホース(14):フリオーソ

今回もハンガリーの馬でフリオーソ(Furioso)である。画像はここ。フリオーソはイタリア語で「激しく」という意味で馬の名前によく登場するが、ここでは品種としてのフリオーソである。

フリオーソは前回のノニウスと深い関係にあるウマの品種であり、オーストリアからポーランドまで広くヨーロッパ中で飼育されている。フリオーソはまた騎兵用のウマとしても飼育されていたが、ノニウス以上に品種改良が進んでいる。

フリオーソ種は二頭のイギリス産の馬、FuriosoとNorth Starをノニウスの牝馬に交配させたことを起源としている。1840年ごろ導入されたFuriosoはサラブレッドであったし、その3年後導入されたNorth Starは1834年のセントレジャース(St.Leger)競馬の勝利者Touchstoneの息子であったが、Norfolk Roadsterの強い影響もあった。

フリオーソ種はヨーロッパレベルの障害物競走を含めさまざまな分野の競技で活躍する能力を持った騎乗馬である。また引きウマ競技でも活躍している。

 

ウマはホース(13):ノニウス

今回からハンガリーの馬を取り上げる。最初はノニウス(Nonius)。画像はここ

ノニウスは19世紀に広大なオーストリア・ハンガリー帝国の牧場でヨーロッパ中の騎兵の新馬を供給したときにその絶頂期に進化した。

この品種はNonius Seniorを起源としている。この馬は1810年ノルマンディー地方のカルヴァドス(Calvados)で誕生し、1813年にハンガリー人たちに獲得された。かれはNorfolk Roadsterとの半血種であったイギリス産馬、Orionとノルマンディー地方の普通の牝馬とによって誕生したものである。この品種はアラブ種、リピッツァナー、ノルマンディー、そしてイギリス馬を子孫とする牝馬とノニウスの牡ウマにまで戻れるノニウスの牡ウマとによって得られたものである。1860年代、サラブレッドの血統が導入された。今日ではノニウスはハンガリーのホルトバージとチェコのトポイシアンキーで生産されている。

ノニウスは優秀な体型で大人しい。曳きウマとしても騎乗馬としても高速ではないが、多目的で優秀なウマである。

ウマはホース(12):ラインランド

今回はドイツのライン川沿いで飼育されているラインランド(Rhinelander)を取り上げる。画像はここ

重量馬であった旧ラインランドは多くをブラバント種に負っておりラインランド、ヴェストファーレンそしてザクセン中で普通の作業ウマであった。それ以来農作業に従事することが長い間続いたので品種が曖昧になり現在ではもはや確認することが困難になった。しかし血統台帳はこの重量馬をとくにその中の軽い系統を基礎に温血種の乗用馬に移行してきた。

19世紀に騎乗または乗用を目的としたウマの生産プログラムが設定された。それらのウマはサラブレッド、トラケナーそしてハノーバーそれとはっきり確認できないが旧ラインランドからなるハノーファー・ヴェストファーレン地区内の牡ウマを父親とした。現生のラインランドは混血から誕生した選択された半結種の牡ウマたちを基礎に生産されている。

 

ウマはホース(11):ヴュルテンベルク

今回のウマもドイツとウマであるヴュルテンベルク(Wurttemburg)である。画像はここにある。

ヴュルテンベルクはドイツの古典的な温血種の一つで、マールバッハにあったドイツ最古の国営馬産牧場で一世紀以上に亘って系統的に馬産が行われてきた。この牧場は1573年にクリストフ・フォン・ヴュルテンベルク(ヴュルテンベルク公国の君主)により創設され、十九世紀の初めにはウマの全頭数は81,000を越えた。

ヴュルテンベルクは腹帯に沿って深い溝があるがっちりとした乗用馬である。強靭な脚、華麗な動き、欠陥のない体型は特筆すべきこがらである。逞しい馬であるが、長寿で飼育にはことの他経済的である。

ポルシェのエンブレムにはこの馬が描かれている。

ウマはホース(10):ハノーヴァー

今回のホースはハノーヴァー(Hanoverian)である。画像はここ

障害飛越や馬場馬術の競技においてドイツの競技馬の先頭にあるのがハノーヴァーである。

選択的な馬産はジョージ二世のとき1735年に始まった。ハノーヴァー選帝侯とこのイギリス国王はツェレ(Celle)馬産牧場を創設した。最初、農耕の多目的なウマとして14頭のホルスタインの牡ウマたちと地元の牝馬のとの交配が進められた。その後品種改良のためサラブレッドとの交配が行われた。

第二次世界大戦後には馬産の目標が競技馬の生産に向けられるなり、トラケナーやサラブレッドとの交配が、注意深く進められた。

厳格な選択基準の結果、抜群に力強く、動きの正確なウマたちであり、優秀な気質の持主である。

ウマはホース(9):ヴィエルコポルスキ

ヴィエルコポルスキ(Wielkopolski)はポーランドの中央部および西部に嘗ていたもっと古い温血種であるPoznanとMasurenを引き継いでいる。これは実用的で経済的であるようにそして幾分はアラブ種の血統に依存するようにとしたポーランドの馬産の伝統である。

約150年前に国営の馬産牧場で確立したPoznanはアラブ種、サラブレッド種そしてハノーヴァー種の混合で、後にはトラケナーの交配をも進んだ。マズーリ地方で飼育されたMasurenは事実上トラケナー種を祖先としていた。この二つの血統がヴィエルコポルスキで結合され、サラブレッド種、アラブ種そしてアングロ・アラブ種との交配が進められた。

ヴィエルコポルスキは強力で曳きウマとしても乗用馬としても優秀な馬である。活動的で素直な性格からこのウマの重い方は農耕馬として用いられた。華麗なヴィエルコポルスキはその歩様(pace)に特筆されるものがある。即ち、長くゆっくりとした常歩、揺れのすくない速歩、そして歩幅の大きい駈歩と襲歩。

 

乗馬の起源(5)

北方カザフスタンステップの狩猟民たちはウマの群れ全体を誘導し捕獲し、それらの死骸を新しく建設された共同居住地まで運ぶ能力を持っていることを初めて示した。騎乗の習慣の採用がこれらの変化をもたらしたという以外の説明は存在しない。
ボタイやKazhai 1におけるウマの管理と乗馬の主張は二つの異なった遺跡から得られたボタイ・Tersek出土の7本のウマのP_2上のハミによる磨耗痕の存在、死骸輸送方法と解体作業、ウマの糞で満たされた地層の発見、1:1性比、そして乗馬の習慣と一致した経済や居住地の変化を基礎にしている。
乗馬の習慣に反する主張は肢の骨の厚さのばらつきが小さいこと、馬の脊柱の少ないサンプルで乗馬に関連する病理学的な証拠がないことを基礎にしている。後者はボタイのウマの骨の75-90パーセントを占める狩猟で得た野生ウマのものであろうと思われる。

紀元前3700-3500年ごろ北方カザフスタンでウマがハミをされ騎乗され始めたとうことがかなり確実なことだ。