美術に表現された馬(7): At the Races ( Edouard Manet)

マネの馬たちである。画像はここ

Horse Museumの説明:

フランスの画家、マネは独特の絵画技法や論争の種になるような絵の対象によって一生を通じて批判された。かれはカンヴァスを絵の具の層を作って筆致を消してしまう古典技法を拒否し、光の印象を創るために逆に色の筆致を使った。今日では多くの人が彼は近代絵画の父だと考えている。

かれが受けたような批判は印象派の人々に対する批判で、かれらの筆致は「モップを使って描いた絵」と揶揄された。

美術に表現された馬(6):Study for Sussex Farm Horse(Robert P. Bevan)

独特の色使いで表現された馬である。画像はここで。

イギリスの田舎で育ったRobert Bevanは二つのことに情熱を注いだ。それらは絵を描くことと馬であった。裕福な銀行家の息子であつた彼にとってはこれらの二つを追求する余裕があつた。絵を学びそしてその芸樹の中で馬を追求することを助言された。彼の最初の個展で批評家たちはかれの色彩が強烈なことに印象つけられた。今日ではかれは20世紀で「純粋な色彩」を使った英国の芸術家の一人と考えられている。

美術に表現された馬(5):馬の素描(葛飾北斎)

葛飾北斎の馬たちである。画像はここにある。

アウトラインのみで馬の特徴を巧みに表現してあり感心する。

五歳のころより彼の言によれば「ものの形を素描することに夢中であった。」三万点以上の作品がある。後年彼は自分のことを「画狂老人」と言った。

臨終の言:

「翁死に臨み、大息し天我をして十年の命を長ふせしめバといひ、暫くして更に謂て曰く、天我をして五年の命を保たしめバ、真正の画工となるを得べしと、言吃りて死す。」

Horse Museumのクレディトによれば、この「馬の素描」はシアトルの美術館にある。

かれは馬を含め多くに動物を描いている。それらはここで見られる。

美術に表現された馬(2):Cavallo (Mario Marini)

今回はイタリアの画家・彫刻家のマリオ・マリーニの作品である。かれは馬や馬とそれに乗っている人物を対象とした作品で有名である。

Horse Museumの解説によれば

かれは馬やそれに乗っている人物をある種の象徴として使っている。「どんな時代であれ、人類と自然の全歴史は馬とそれに乗っている人物の像の中に見出すことができる。これが僕が歴史を語るやりかただ。」と語った。

かれの作品はここで見られる。

美術に表現された馬(1):Blue Horse I (Franz Marc)

Dr. Seuss’s Horse Museumという面白い本をもらった。こども向けの本であるがおとなが見ても面白い。馬の本でなくて、美術の本である。芸術家たちが馬という動物をどのように見ていたのかを紹介したものである。面白ので何人か紹介する。

初回はFranz Marc(フランツ・マルク)の”Blue Horse I”である。

かれの作品はここで見られる。

本の中の解説によれは

ドイツ生まれのフランツ・マルクは大胆な色使いの動物、特に馬の絵によってよく知られている。マルクにとって馬は人類が失ってしまった方法で自然とつながりを持つ神秘的な創造物であった。彼のエッセイ「馬は世界をどうようにみてるのだろうか?」の中で彼は「芸術家にとって自然が動物の目の中にいかに反映されているかを想起する以上に神秘的な観念以上のものがあるだろうか?」、「馬は世界をどうのように見ているにか、タカは、シカは、はたまたイヌは?」

ウマはホース(26):バルブ

今回は(北)アフリカのウマをみる。最初はバルブ(Barb)種で、画像はここ

バルブ種はアラブ種に続いて世界の馬の品種の基礎になった馬である。この品種はサラブレッドの基礎になっている。

この品種は北アフリカのモロッコが原産地である。この品種は氷河期を乗り切って野生ウマの集団を形成したと考えられている。どうだとすると、この品種はアラブ種より古いこのになる。ある時点でアラブ種のいくらかを血がはいったが体型はアラブ種の典型から引き継いだものはなにもない。近年伝統的なバルブ種、つまりイスラムのヨーロッパに進出にたいして大きな役割を果たしたベルベル人の騎兵が乗った馬に関する検討が進められた。元来のバルブ種の起源は不明な点があるが、バルブ種とアラブ種にははっきりとした違いがある。

 

ウマはホース(25):ルシターノ

今回はポルトガルの馬であるルシターノ(Lusitano)の取り上げる。ルシターノも画像はここをみてほしい。

ルシターノは最高級の騎乗馬と同時に観閲用の馬車馬としても特筆され、かつてはポルトガル騎兵の騎乗馬であった。この馬はポルトガルの闘牛士たちに最も好まれた馬であり、この役割のため、Haute Ecoleの上級運動コースで訓練された。近年ではイベリア半島だけでなく、多くの愛好者がいる。

この品種はスペインのアンダルシアンのポルトガル版と言ってよい馬である。

 

 

ウマはホース(24):アンダルシアン

久ぶりに馬の話。

スペインの南に位置するアンダルシア地方の馬であるアンダルシアン

現生のアンダルシアンはアラブ馬やバーブ馬と並んで世界の馬の品種に絶大な影響を与えたスペイン馬の後裔である。十九世紀までスペイン馬はヨーロッパ中で第一級の馬であり、ルネッサンスの乗馬学校の古典馬術がその基礎とした馬であった。ウイーンのスペイン乗馬学校はそこで使われていたスペイン馬に因んで付けられ、有名な葦毛のリピッツァナーは十六世紀にスペインからスロベニアのリピカに輸入されたスペイン馬から直接に引き出されたものである。

アンダルシアンの生産はヘレス・デ・ラ・フロンテーラ、コルドバ、セビリアが中心で、そこではカソリック修道僧たちによって生産が継続されていた。スペイン馬は野生種のターパンとの関連でポルトガルのソーライアと北アフリカから侵攻してきた部族たちが持ち込んだバーブ馬との混血かもしれない。

アンダルシアンは雄姿の馬である。速い馬ではないが、素早く動き運動能力は高い。鷹のようなスタイルの優雅な頭部で、たてがみや尾の毛は長くときとしてウエーブしている。

 

 

馬子唄の世界(9):鈴鹿馬子唄

歌詞

坂は照る照る 鈴鹿は曇る(ハイ ハイ) あいの土山 エー雨が降る (ハイ ハイ)
「坂」は坂下宿の意味。いまでは小さな集落らしい。「あい」の意味は沢山あるらしいが、坂下宿に対して鈴鹿の反対側の土山というのが自然のように思える。

歌詞の意味は:

坂下宿では晴れているが鈴鹿の反対側にある土山では雨が降っていて、中央の鈴鹿峠は曇っている。 高い山々が連なる山脈では分水嶺を挟んで天候が変わる。

歌詞は以下のように続く:

○馬がもの言うた 鈴鹿の坂で お参宮上﨟(おさん女郎)なら エー乗しょと言うた

○坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや エー小竹屋に

○手綱片手の 浮雲ぐらし 馬の鼻唄 エー通り雨

○与作思えば 照る日も曇る 関の小万の エー涙雨

○関の小万が 亀山通い 月に雪駄が エー二十五足

○関の小万の 米かす音は 一里聞こえて エー二里ひびく

○馬は戻(い)んだに お主は見えぬ 関の小万が エーとめたやら

○昔恋しい 鈴鹿を越えりゃ 関の小万の エー声がする

○お伊勢七度 おたがわ八度 関の地蔵は エー月参り

「乗」という漢字の意味

小説十八史略」(陳舜臣)を読んでいたら「乗」という漢字の意味の解説があった。

それによると

四頭立ての馬車を「乗」という。戦車の場合はこれに三人の武装兵が乗り、後ろに七十二の歩兵を従える。

天子のことを「万乗の君(ばんじょうのきみ)」と称するは、四万頭の馬と七五万の軍勢を率いる王者の意味。