みうら・ばいえん(三浦梅園)

「日本の唯物論者」の中で著者の三枝博音はみうら・ばいえん(三浦梅園)を高く評価している。

三浦梅園はこんなことを意っている。

「ほんとうに自然を見抜くということになれば、聖人とか仏陀ついったところで結局は人間なのだから、わたしたちの学問の討究においては同僚であるにすぎない。先生とすべきものは自然である」

このような認識は自然科学の方法論の真髄である。

とみなが・ちゅうき(富永仲基)

日本の唯物論者」の中で三番目に取り上げたのが、とみなが・ちゅうき(富永仲基)である。

大阪の裕福な商人のこどもで、地元の懐徳堂(かいとくどう)で朱子学を学んだ。新興商人階級の目で正統的な学問に批判的な精神で触れることができた。こんなことを言っている。

「仏道のくせは幻術、儒道のくせは文辞、神道のくせは神秘、秘伝、伝授にてただものをかくすがそのくせなり」(出定後語)

 

 

おぎゅう・そらい(荻生徂徠)

「日本の唯物論者」の中で著者の三枝博音は第二の人物としておぎゅう・そらい(荻生徂徠)を取り上げている。

荻生徂徠は二つの点で唯物論の萌芽が見られとしている。

第一は理論性の徹底である。

例えば当時の暦であった授時暦(じゅじれき)を批判して

「実験(推論)に基づくというが、それは三、四十年くらいしかないではないか、これでは私たちは信頼できない。」と述べ、理論的な裏づけ(惑星の運動、太陽系のモデル)を要求している。

第二は技術の重視である。

「理で考えていくのは宋の儒者が始めた。理をつかむ基礎ができていない。だから理にとどまっている。」と「理」の哲学を批判している。いったいのものは多くの理が集まっているところのものである。人はこのものに親しんでいるとそのものの理がわかろようになる。

また「後代の儒者は技術ということを軽蔑して言わないようになった。これでは本当の学問にならない。」と批判している。

 

かいばら・えっけん(貝原益軒)

「日本の唯物論者」の中で著者の三枝博音は近世の日本で唯物論を準備した人々を紹介している。そのトップがかいばら・えっけん(貝原益軒)である。唯物論としているが、これはヨーロッパの学問の方法論を準備した人々といってもよい。

益軒には「大疑録」という著述がある。その中で「形而上と形而下とを論ず」という一節がり、当時の朱子学の批判を展開している。「陰陽は地上のものとしている。これはおかしい。」地上にあるものは益軒にとっては技術の対象であり、観念的なものではなかった。天上にあるもののみが「陰陽が象をなしている」のである。

益軒は『大和本草』(二十五巻)などの実学的な著作があり、地上のもの対して博物学的な知識を体系化していおり、地上にあるものは観念的な対象でなく技術の対象であった。ここにものに即した学問の萌芽が認められる。

日本の学問

「日本の学問」(松島栄一著)という古いが興味ある本がある。日本の学問は近代になってヨーロッパの学問の方法を受け入れその方法論を消化して発展するわけであるが、それ以前の日本の学問の性格やヨーロッパの方法論を受け入れる素地を担った近世の日本の学問の系統を論じたものである。

近世までの日本の学問の特質を著者は以下の纏めている:

「すでに書物に記されている教説=教理を学び、それにより諸事万般を判断してゆこうとすることが学問である。『読書百編、意おのずから通じる』という一句はこの学問の姿をよく現している。」

一方ヨーロッパの学問の方法論は

「つねに疑問をかかげ、全てのものに批判的態度で接し、また考え、事実を明確にし、その事実にもとづいて判断してゆく。」

近世の日本の学問の中にこのようなヨーロッパの学問の方法論の萌芽があったのか、あったとすればどのようなかたちであったか。このようなことを考えてみよう。

 

English Oak

English Oak(オーク)の学名はquercus robus。和名は「カシ」、「ナラ」、「クヌギ」?

答えは「ナラ」。

カシ」は常緑樹である。「クヌギ」はどんぐりの形が違う。

“Leaves”では

神話の多くを総合すると、オークは「力」や「耐久力」の強力な象徴である。ラテン名”robus”は「強さ」を意味し、天空やいかずちの神、ギリシアのゼウスから稲妻や雷鳴を支配した北欧のトールまでの多神教の神々と繋がっていた。ケルト人たちはこの木が聖なる知識や特にこの木の下で執り行ったであろう儀式や宗教儀礼のドルイド教の祭司であると信じていた。今日ではコークは硬木として定評があり、昆虫や鳥、そして哺乳類までがその恩恵を受けている木である。

英語で常緑性のカシのみを指すばあいは”live oak”という。ヨーロッパではこの常緑性のカシは南ヨーロッパに限られている。イギリスなどで”oak”と言っているものは落葉樹の「ナラ」である。

”Leaves”には紅葉した”oak”の葉が載せてあるので、これは落葉樹である。しかしゼウスの聖なる木は常緑樹であり特別な神託に使った木で「カシ」である。古代には常緑性に特別な思いを寄せていたのである。同じようにケルトにおける特別な木である「オーク」も常緑樹の「カシ」ではないか?

White Willow

White Willow(ホワイト・ウエロー)の学名はsalix albaである。和名はヤナギの一種、セイヨウシロヤナギ。画像はここで。

“Leaves”には

綿毛のような毛を持った青白くほっそりした葉をしているので、詩人や芸術家に人気がある理由が分る。しばしば悲しみの象徴と考えられてきたが、お祝いのための木でもあり、その枝はしゅろの主日(Palm Sunday)に教会を飾るのに使われる。水辺に生えるので月やギリシア神話の月の女神ヘカテと関連させることもある。ヘカテが魔女の女王と考えられていたので、この神話的な繋がりからこの木はよく魔女の木であると思われていた。籠、家具、そしてフェンスを織り上げるために使う長くて柔軟な幹を得るためヤナギはよく伐採木として育てられる。

“Willow, weep for me”「ヤナギよ、私のために泣いておくれ」というジャズのスタンダードがある。

 

Silver Birch

Silver Birch(シルヴァー・バーチ)の学名は(Betula pendala)、和名は樹皮が白いことから「シラカンバ」(シラカバ)である。画像はここで。

“Leaves”には

シラカバの葉は昔から利尿剤として使われてきている。殺菌作用も知られていて膀胱感染症や腎臓結石の治療薬になっている。木自体は春の到来の意味を持っている。ケルト人たちはこの木の清め性質に価値を置き、シラカバの若い枝を束ねたものを古い年の精霊を追い払う儀式に用いた。後年これが”beating the bounds”の風習になった。シラカバは土壌の改良によって他の植物を助けている。というのは、シラカバは地中の深いところから養分を吸い上げ、秋に葉が落ちることでその養分を土に戻すからだ。

 

 

Beech

Beech(ビーチ)の学名はFagus sylvalica。和名はブナである。画像はここ

“Leaves”に面白い解説があった:

ブナの木は非常に長寿の木であり、占いや未来を見通すなどのことに繋がっている木である。18世紀のドイツの一部では、赤ん坊はコウノトリが運んでくるといったより伝統的な民間伝承に代わって、このブナの木の洞から生まれるという伝承があった。古代(紙の発明が西欧に伝わる前か?)においては、この木の幹の薄いスライス(日本の経木のようなものか?)はそこに文字を書く台紙として使われ、この樹皮はそれに彫刻を施す材料として使われた。これはローマ時代まで遡る風習であった。この木の葉は様々な薬効があり、皮膚の疾患を治す湿布薬として使われた。また病後の回復を促進させるために寝具類の詰め込み材として使われた。