原田甲斐供養会

原田甲斐の供養会が9日に営まれた(河北新報12日夕刊)。「寛文事件」で最も謎に満ちた人物が原田甲斐(はらだかい)である。伊達安芸の居城である涌谷では、原田甲斐は反対派の伊達兵部の一味ということになっている。
小説「樅の木は残った」(山本周五郎箸)、「虹の刺客」(森村誠一著)では、酒井雅楽頭(うたのかみ)の兵部を取り込んだ伊達家取り潰しの策動を察知した原田甲斐は、伊達安芸のように伊達家が兵部によって藩政が壟断されていることを幕府に訴えることで幕府介入のきっかけを与えてしまうことを心配していた。そこで「なにも無かった」ことで事態を収拾しようとした。刃傷事件のあった酒井邸で居合わせた伊達藩の重臣を原田甲斐は斬り殺して沈黙させてしまう。原田甲斐自身も駆けつけたものたちによって殺されてしまう。生き残ったのは古内志摩(ふるうちしま)唯一人である。かれは、この刃傷事件にはなぜか沈黙している。
伊達安芸はこの事件では正義派ということなるが、原田家は大悪人としてお家断絶となる。真実は分からないが歴史に埋もれさせるのには惜しい人物である。
供養会はいつもは命日の4月に行われるが震災の影響で7月になった。場所は「荘厳寺」。ここには原田邸にあった山門(逆さ門)が移設されて原田家とは縁が深いことからだと説明があった。原田邸は現在の高等裁判所の敷地である。

春・夏・秋・冬

現在の日本では一年を春・夏・秋・冬の季節に分ける。何時からいつまでを「春」というのだろうか?これが今日のテーマである。
江戸時代の太陽太陰暦では、天体の月の満ち欠けに合うように「月」の初めとその長さが決められたが、太陽の動きにも合わせるようにした。そのため、「二十四節気」という太陽の動きに基づく節目を太陰暦に導入した。「二十四節気」は
立春(りっしゅん)
春分(しゅんぶん)
立夏(りっか)
夏至(げし)
立秋(りっしゅう)
秋分(しょうぶん)
立冬(りっとう)
冬至(とうじ)
など太陽の動きによる節目である。例えば、冬至は一年の内で南中の太陽の高度が最も低くなる日であるし、逆に、夏至では高度が最も高く日である。
二十四節気では、各「立」と「分」の間に二つの節が入る。
たとえば立春と春分の間には
雨水(うすい)
啓蟄(けいちつ)
の二つの節がはいる。このようにして6X4=24になる。
日本の春・夏・秋・冬はこの二十四節気を基に決められる。すなわち
春:立春から立夏まで
夏:立夏から立秋まで
秋:立秋から立冬まで
冬:立冬から立春まで
となる。立春は二月上旬であるので、実感の季節感からすると、この季節区分は少し前倒しである。だから、「暦の上では、春ですが…」となる。立秋は八月上旬であるので、この事情は秋も同じである。二十四節気は中国起源であるのでもっと緯度の高い北京あたりの季節に対応したものであるという説があるが、秋については、妥当であるが、春は逆センスになる。
僕はこれを以下のように考える。
そもそも天体の運行に基づく暦を作ろうとした文明には四季折々の風物から季節をはかる自然暦の環境が無かった。だから、「立春」などの節も単に観念的なものであったと思う。 ところが、それを輸入した日本には、以前から自然暦の長い伝統があった(本居宣長「真暦考」)。そこで輸入した暦に自然暦の対応をせざるを得なくなった。そこで上のような季節を配当した。これが僕の説である。
因みに西欧では
春:春分から夏至まで
夏:夏至から秋分まで
秋:秋分から冬至まで
冬:冬至から春分まで
となる。こちらの方が日本の季節感にマッチする季節区分である。

小迫(おばさま)延年舞

宮城県栗原市金成町津久毛字小迫(おばさま)の白山神社で行われる流鏑馬神事である。
説明によれば
古来、この馬乗渡しの扇の的を手に入れた部落は豊作であるといわれ、必死に的の奪いあいが行わてきたため、一名「ケンカ祭」ともよばれています。祭りの当日は、那須与一の扇の的射にあやかり宮城県北・岩手県南から数百人の選手が技を競う弓道大会、吟道大会が開催されるほか、地場産品まつりも同時開催され好評です。昭和54年2月3日、重要無形民俗文化財として国の指定を受けました。祭典は、旧3月3日でしたが、現在は4月第1日曜日に開催されています。

流鏑馬神事
流鏑馬神事ー1mほど前の大きな的を射るそうです。


そう言えば那須兄弟は兄の那須与一(宗高)は源頼朝の武将、弟の那須大八郎は源義経の武将と兄弟でも別々の主に仕えていた。最も、兄の那須与一は、直接の上官である梶原景時(かげとき)の陰謀に近い「義経追い落とし」を嫌って、この「扇の的射」のときは、義経配下の武将として従軍していたときのことである。梶原は激怒して、軍罰を科した。この那須兄弟は、もっと複雑で、六郎実高、四郎久高、三郎幹高は平家方にいた。

「木の下が蹄のかぜや散さくら」(蕪村)

地震波の周期

2011年3月11日に起きた東北・関東大震災は筆舌に尽くしがたい被害を生んだが、地震そのものより地震に伴う津波による甚大な被害が特徴である。
地震による振動で家屋の崩壊を引き起こす振動は、建物の固有振動と共鳴する周期が1秒~2秒あたりのものである。だから到来した地震波にこの周期の成分を多く含んでいるものは家屋に地震そのもので大きな被害がでる。不思議なことに、今回の地震はこの建物に大きな被害を及ぼす1秒~2秒の長周期成分が少ない。1秒以下の成分が大きいことが特徴である。この特徴は前回の宮城沖地震も同じ傾向にある。だから、宮城県周辺は耐震の備えが進んでいることによって地震そのものの被害が少ないわけではない。

加速度データのパワースペクトル(気象庁資料より)。横軸は周期で単位は秒で、縦軸は周期成分の相対的な強度である。宮城県沖(2003年)のグラフのピークが1秒以下の周期のところにあることがわかる。

地震波に含まれる周期成分の特徴が何によって決まるのか考えてみよう。それは地震を引き起こす地殻変動の空間的なスケールの大きさだと思われる。地殻を伝播する弾性波は伝播速度が5~7km/secである。仮に周期1秒の成分を作ろうとしたら、従って5~7km程度の規模の地殻が一斉に活動(地殻変動)すればよい。宮城県沖の地震はこの規模より可成り小さな領域がボコボコと地殻変動した結果なのだと思われる。地殻変動の空間スケールは小さいが、大きな地震であるので変動のずれはおおきなはずである。今回の地震の活動域が日本の東北から関東の太平洋沿岸に沿って500km程度の広い範囲になるが、地殻変動の空間スケールはその100分の1程度かもしれない。

「ルーシー」は二足歩行

新聞でルーシーが二足歩行をしていた証拠が見つかったとする記事を見た。ルーシーは今から320万年まえにアフリカに住んでたアファール人の女性の化石に付けられた名前で、今回同じアファール人の第四中足骨の化石が発見され、この骨の形状から足裏に「土踏まず」があったことが示されたというわけである。
「土踏まず」は二足歩行をするときに姿勢を制御したり、衝撃を和らげたりするのに必要な足の構造だと考えられているので、これからルーシーを初めとするアファール人の二足歩行が証明されたと報じている。
二足歩行といえば、つい最近に通常に二足歩行をするチンパンジーの話が報じられていたが、猿などの四足歩行は前足をナックルウォークさせる。これらを見ていると二足歩行までもう一歩という感じである。

立春正月

広辞苑によれば、「節分」とは、立春(りっしゅん)、立夏(りっか)、立秋(りっしゅう)、立冬(りっとう)の前日のことで、今日では、これらの中の立春の前日の節分のみが人口に膾炙されている。
旧暦ではこの立春の前後が年の始めであった。
暦を作る上では、冬至が最も重要な日である。冬至の日は太陽の動きを観察することで決められる。一年で棒の影が最も短くなるタイミングが冬至である。冬至から次の冬至までが一年となる。これを正確に決めるのが暦の最重要事である。
この一年にどのような月を配分するかは次の問題である。
たとえば、江戸時代の最後の暦である「天保暦」では
「歴日中、冬至を含むものを十一月、春分を含むものを二月、夏至を含むものを五月、秋分を含むものを八月とする。」(能田忠亮著「暦」(至文堂:昭和41年)。
だから正月元日は立春の前後になる。元日が立春の前になるのか、後になるのかは年による。
こんな和歌もある。「年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはん今年とやいはん」(在原元方)。
こんな複雑な旧暦であるが、江戸時代の人は西洋の太陽暦を見て、「怪奇の甚だしいもの、蓋し蛮人の遺毒か」(渋川春海)と言ったとか。

「年の内の春ゆゆしきよ古暦」(蕪村)
「御経(おんきょう)に似てゆかしさよ古暦(ふるこよみ)」(蕪村)

ヘリオット「猫物語」

ドクター・ヘリオット「猫物語」(JAMES HERRIOT’S CAT STORIES by James Herriot: illustrations by Lesley Holmes)には実にさまざまで個性的な猫が登場する。そして全てのストりーが面白い。しかも挿入されているイラストがなかなか趣味がいい。

英語版表紙
英語版表紙


タイトルを列記すると
1.アルフレット お菓子屋の猫
2.オスカー 社交家の猫
3.ポリス 逃げ足が速い猫
4.オりーとジニー うちに来た二匹の子猫
5.エミリー 紳士の家に住みついた猫
6.オりーとジニー 住みつく
7.モーゼス 灯心草の中で見つかった猫
8.フリスタ 死の淵から何度も蘇った猫
9.オりーとジニー 最大の勝利
10.ベスター ボールを拾ってくる猫

こんなに沢山の猫が登場する。

猫の水飲み

昨日(11月12日)の新聞に猫の面白い記事が載った。複数の新聞に載ったので見た人が多いと思う。生き物は僕らが想像する以上に凄いことができる。それが「猫の水飲み」である。猫は唇がない(?)ので水を飲むときヒトのように水を吸って口に中に入れることができない。さて、どのようにして猫は水を飲んでいるのか? この疑問をMITの研究者達が猫が水を飲んでいる様子を高速度ビデオカメラで撮影してメカニズムを解明した。これが記事の内容だ。
それによれば、まず猫は舌先を手前側にJの字形に丸めて水面に浸した後、素早く引き上げて細い水柱を作り、タイミングよくその水柱が口の中に入ったら口を閉じて水を飲むということが分かった。舌先を水面から引き上げる速度は秒速78cmで水柱にして飲める量は一回当たり0.14ml程度。1秒間に3,4回の頻度で舌先を水に浸している。
面白いのは速度より、水柱を引き上げる時の加速度で、それは1g,つまり重力加速度(1g)と同じ程度の大きさになることである。これから、水柱を紐で結んで、「ヒョッ」と勢いよく引き上げるようなイメージで猫は水を飲んでいるのが分かる。
そんな記事を読んだ後、馬はどうやって水を飲んでいたかなと思った。次の乗馬レッソンの時に観察してみることにする。

My Horses, My Teachers(日本語訳)

アロイス・ポジャイスキー(Alois Podhajsky)著My Horses, My Teachers( Trafalgar Square Publishing : 1997) の日本語訳である。著者はウイーンのスペイン乗馬学校の高名な所長且つトレーナーである。書名は馬に教えられることが無数にあり、乗り手にとってもトレーナーにとっても馬自身が教師であるといった意味である。
以下はその日本語訳の「目次」と「はじめに」である。
わが馬、わが師