獅子身中の虫とカタストロフィー

「獅子身中の虫」は仏典による名言である。仏法を滅ぼすものは仏法の内部にある。

ー獅子身中の虫、自ら獅子の肉を食らい、余外の虫に非ざるがごとし

タコマ橋の崩落のようなシステムの崩壊はシステム自身が持つ構造的な安定性による。これがカタストロフィーである。

 

「商業(しょうぎょう)」と「杞憂(きゆう)」

「商業」と「杞憂」。

何の共通点もないようだけれど、「商」も「杞」も国名であり、しかも亡国の民がひっそりと暮らした国である。

まず「商」。周の武王が殷(いん)をほろぼしたのは紀元前1027年ごろといわれている。この殷は自分たちの国を商(しょう)と呼んでいた。周は殷の王統の微子啓(びしけい)を宋という国に封じた。与えられた宋という土地は肥沃でなく、そこの人々は商業活動で生計をたてた。その業が「商業」である。

つぎに「杞」。殷(商)は夏王朝を倒してできた国である。その殷は夏王朝の遺民に国を与えた。この国が杞(き)である。

この杞に心配性の男がいて、「天が落ちたらどうしよう」「太陽・月・星が落ちてくるかもしれない」と取り越し苦労をしていた。これが杞憂である。

商人や杞人はどちらも亡国の民であり、これらの逸話はかれらが特別視(差別視)されていたことの反映なのかもしれない。

中国名言集:弥縫録」より。

 

亡羊(ぼうよう)の歎(たん)

楊朱(ようしゅ)という人物に纏わるエピソードである。この人物は紀元前四世紀の思想家であった。

あるとき楊朱のところに隣人が手助けを求めてきた。羊が一匹逃げて捕まえるのに手が必要だということだった。たった一匹の羊のために隣家に手助けを求めるとは不審だと思った楊朱が隣人に理由を尋ねると

「逃げた方向には分かれ道が多くて」

という答えであった。了解した楊朱は手助けを貸した。

追跡した一行が戻ってきて首尾を聞くと

「やっぱり逃げられてしまいました」

という答えだった。これを「多岐亡羊」という。それを聞いた楊朱は

ー大道は多岐をもって羊を亡(うしな)い、学者は多方を以って生を喪(うしな)う

と歎いたという。学問の道も分れ道が多く、どちらに向かえばよいのか思案にくれることがある。

これが「亡羊之歎」である。

「中国名言集:弥縫録」より。

 

元日には鶏(にわとり)を占なった

昔の人々はなんでも占いをした。

これも「中国名言集:弥縫録」にあった話である。

元日に占いをして「凶」と出たらまずいので、まず無難なところから始めた。それで元日は鶏を占なうことにした。「今年は卵を沢山産むかな」とか占なったという。二日は犬、三日は豚、四日は羊、五日は牛、六日は馬と身近な家畜を占い、七日にやっと人の番になる。この日を人日といった。

人日に占いをして「凶」とでたらどうしよう。そのときは厄除けのマジナイをすればよい。それには七種の薬草をスープにして飲めばよい。

この風習が日本に伝わり「七草粥」になった。

元日には鶏(にわとり)を占なった

折角(せっかく)と折檻(せっかん)

漢字「折角」も「折檻」も折(お)るという漢字を含んでいる。

何を「折る」のかが問題。

折角では「折る」のは角(つの)であり、折檻では「折る」のは「おり」ではなくて「てすり」である。

こんな話が「中国名言集:弥縫録」にあった。

前漢末の人に朱雲という人が当時宮廷で高慢な振る舞いをしていた五鹿充宗(ごろくじゅうそう)という易学の大家を易学の問題で論争し徹底的に論破した。人々はこれを

五鹿獄獄、朱雲其の角(つの)を折る

と言い合った。

これが「折角」である、つまり「高慢ちきの鼻をへし折る」ことである。

同じく朱雲は丞相となった張禹(ちょうう)という人物が無能なことに憤慨して皇帝に諫言したが、この諫言に激怒した皇帝は彼を死刑にするように命じた。朱雲はそれにもめげず檻(てすり)にしがみついて諫言を続けそれを引き離そうした役人との力較べでてすりが折れてしまった。

これは「折檻」である。つまり「下から上を強く諌める」ことである。

これには付録がある。反省した皇帝は折れたてすりの修理をさせず、諫言を歓迎する意を示した。それ以降中国の歴代王朝では宮廷造営の際てすりの一部をわざと欠くことをしきたりとしたという。

「折角」も「折檻」も現在の日本では大変に違った意味に使われているが、それらの漢字の字面を見ると元来の意味に納得する。

折角面白い話を読んだので紹介した。

弥縫録(びほうろく)と備忘録(びぼうろく)

陳舜臣氏の著作に「中国名言集:弥縫録」という面白い本がある。

最初の話題が弥縫録(びほうろく)と備忘録(びぼうろく)である。

日本では弥縫(びほう)という言葉は「とりつくろう」、「一時しのぎ」等ネガティブな意味に使うことが多い。

中国の古典でこの言葉が最初に使われたのは「春秋左伝」で紀元前700年ころで、意味は「蟻の這い出る隙間もないほど」つまり「なにひとつ逃さずひろいあげようすること」だそうだ。日本とはほぼ逆の意味である。

著者はこの意味で弥縫録(びほうろく)を本の題名したと述べている。

 

マキアヴェッリ語録(塩野七生著)

マキアヴェッリ語録(塩野七生著)という本がある(新潮文庫)。これはマキアヴェッリの著作の著者の眼識による抜粋である。その中の名言を少し紹介する。

*国家にとって法律をつくっておきながらその法律を守らないほど有害なことはない。とくに法律をつくった当の人々がそれを守らない場合は、文句なく最悪だ。

*歴史は、われわれの行為の導き手(マエストロ)である。だが、特に指導者にとっては師匠(マエストロ)である。

中国の人名にででくる「字(あざな)」について

映画「三国志」を見ていると登場人物の殆んどが字(あざな)を持っている。

諸葛 亮(しょかつ りょう)は字は孔明こうめい)、司馬 懿(しば い)は字を仲達(ちゅうたつ)といった具合である。

諸葛 亮のばあい諸葛(しょかつ)が姓で亮(りょう)が名であり、司馬 懿のばあい司馬(しば)が姓であり懿(い)が名である。

この名と字との機能の違いがあるように思える。

自分を表現するときには名を使う。例えば、孔明の有名な「出師の表」の出だしでは

「臣亮言う。先帝、創業未だ半ばならずして中道に崩殂す。….」となる。

一方人々がかれを呼ぶときには、「孔明」と字で呼ぶ。

また、面白いことに名は漢字一字であるのに対して、字は漢字二字である。時代は失念(たぶん後漢以前)したが、それまで使っていた漢字二字を名に使うことが禁じられ、漢字一字の名のみ使うことが許され、同姓同名が沢山に世のなかに出てしまい混乱したときがあった。もしかしたら、このような混乱を避けるために漢字二字の「字」を使い始め、それが習慣化したのかもしれない。

 

美術に表現された馬(4):Horse (Alexander Calder)

ワイヤーで馬を表現した。大変に印象的な立体像だ。画像はここで見られる。

“Horse Museum”の説明によれば

米国の芸術家、Alexander Calderは8歳のとき彼の妹の人形にためにワイヤーで飾りを作った。おとなになって批評家たちが「立体描画」と名づけた手法のワイヤーで肖像画や彫像を作成し始めた。かれの初期の作品はこの馬のように形象描写的で動かないものであった。最終的には彼は金属板やワイヤーから抽象的な作品を作るようになった。しかもそれは動く。最初はそれはモータによって動かされたが、最終的には自力で動くようなものであった。1931年Marcel Duchampはこの動的彫刻を「モビール」(”mobile”)と呼んだ。

一度は自分の部屋にこのモビールを掛けたことがないかな?それならばAlexander Calderにありがとうを言おう!

蹄脚硯と地方文化

蹄脚硯という面白い形をした硯がある。奇蹄類(多分馬)の蹄のかたちを模した硯である。画像はここで見られる。以前に平城京の発掘から出てきた蹄脚硯を本で見たが、先日仙台メディアテークで仙台周辺の遺跡の発掘にボランティアで参加した活動報告展示があり、そこにこの硯があった。奈良時代には地方でもこの種の硯が使われていたことを示している。

奈良時代は仏典の写経などで墨で文字を書くことが多かった。坪井清足著「平城京再現」によれば、平城京には写経所が何箇所もあり、経師と呼ばれる経を書き写す人、校生という校正する人など沢山の役人がいた。硯の需要も多かったと想像される。

聖武天皇のよる一切経の写経奉納といっても、実際に経典を書き写したのこれらの写経生であったわけだ。