Aspen

“The Little Guide to Leaves”にもう一つ懐かしい名前を見つけた。それが”Aspen”である。

コロラド大学のキャンパスはボルダー(Boulder)という大学町にある。このキャパスは建物が統一されていて同一のレンガ造りで印象的だったことを思い出した。アスペン(Aspen)はこのコロラド州の町でこの大学の研究所があり、カオス関連の研究会がもたれたことがあった。この研究会には参加できなかったが、訪ねたい場所だった。

さて植物のアスペンであるが、学名は”Populus tremuloides”という「ポプラ」の一種「カロリナポプラ」である。写真はここで見られる。

“Leaves”には

“Quaking Aspen”とか”Quaking Poplar”といった名前で知られているが、この木はそよ風にカサカサと鳴る丸い葉を持っている。この葉は茎が捩れていて、そこを風が通ると小刻みに震える。秋になるとこの葉は目を見張るほど明るい黄色になる。米国ユタ州の州の木である。ビーヴァーにとっても人気の木で、歯でこの木を刳り貫いて巣の通路として使う。幹は割れにくく賢明な選択だ。この木はベンチを作るときにも使う。

「ポプラ」は「ヤマナラシ」とも呼ばれている。カサカサと山全体が鳴っているようだという意味である。

 

スズカケと山伏

スズカケの木もきれいな球状の実のあつまりを長い柄の先に付ける。画像はここ

山伏が羽織る法衣を「鈴掛(すずかけ)」という。一説には胸に着けた「ぼんぼり」がスズカケの実に似ているからだという。

山伏の起源は古く奈良時代あたりからいたという。密教系の私度僧(しどそう)が山の中に入って修行するといったことがその契機かもしれない。里人との交流もあり、強い影響力を持ったこともあったらしく、山伏禁止令が出たこともある。

「ほら貝」は山伏を直ぐに連想させるほど密接に繋がっている。この「ほら貝」が登場する仏教行事は東大寺・二月堂の「お水取り」、正確には「修二会(しゅにえ)」で奈良時代からの古い伝統がある。この行事も十一面観音を本尊とするなど密教の色彩が濃厚なものであり、「ほら貝」が重要な仏具として使われる。もう一つ重要な仏具が「鈴」である。「貝鈴(かいすず)」など各種の鈴が使われる。これらの鳴り物はほとけを覚醒させ、喜ばすために使われるという。

もしかしたら、古い時代の山伏も「鈴」を持っていたのかもしれない。険しい山道などを修行の場としていたので手を自由に使うためにその「鈴」を法衣に着けたのかもしれない。近世の山伏の「ぼんぼり」はその名残であろう。

 

Sycamore,Silver Maple

“The Little Guide to Leaves”の第1と第2のテーマがこれらである。

Sycamoreはアメリカスズカケ、Silver Mapleはそのままシルヴァー・メープル。どちらも面白い実を付ける。

アメリカスズカケの実は”ball-like catkins”で長い柄の先にボール状の実を付ける。”catkins”は子猫のシッポのようなという意味か?

シルヴァー・メープルの実はヘリコプターの回転翼のような二枚の翼がありこの翼の根元に実がある。helicopter(ヘリコプター)は”helico”がらせん状という意味で、”pter”が翼のあるものという意味である。mapleにはいろんな種類があるが全てはこの二枚翼を持つ実だそうだ。この実は差し詰め”maplepter”である?

なお、街路樹によくあるプラタナスはこのアメリカスズカケとスズカケとの雑種だそうだ。

アメリカスズカケの画像はここに、シルヴァー・メープルの画像はここにある。また、”maplepter”の画像はここにある。

大菩薩峠(だいぼさつとうげ)

これも「菩薩」が付いた名前の峠である。中山介山の長編時代小説「大菩薩峠」は机竜之介がこの峠で一人の老巡礼を理由なく辻斬りする場面から始まる。

この峠は江戸・新宿から甲斐に向かう甲州街道の裏街道であった青梅街道上にあった。江戸城の白壁の材料になった石灰石が青梅で産したので新宿から青梅までは整備された街道だったと思われる。しかしその先の丹波宿からは険しい山道で大菩薩峠に向けた登りとなる。そこから下りで甲斐の塩山で甲州街道に合流する。

昔は少ないながらも人や物の往来があったのだろうが、今では大菩薩峠は本格的登山でしか行けないところになっている。

野麦峠(のむぎとうげ)

小説や映画で有名になった峠である。飛騨と信州の境にある。

ところで「野麦」というのは野生のムギのことではなく、この付近に沢山自生している「クマザサ」(隈笹)のことだという。飛騨地方では凶作のときにこの葉を食べたという。だから「野麦」なのかもしれない。

薩埵峠(さったとうげ)

宇津ノ谷峠の近くにかわった名前の峠がある。それが薩埵峠(さったとうげ)。沼津の近くである。漁師の網にかかって引き上げられた地蔵菩薩像(さったの地蔵)を山上に祀ったことからその名が付いたと言われる。

ここは景色がよく富士山と駿河湾が一望できる峠である。綺麗な景色をみてほしい。ライブカメラの画像も見られる。

この峠は甲斐と駿河の境界にあり、武田と今川の戦いの戦場にもなった。

蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)

峠の話をもう1つ。宇津ノ谷峠である。歌舞伎では宇都谷峠となっている。その歌舞伎の本題が「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」である。静岡市と藤枝市の間にある峠である。近くに東海道「丸子宿」がある。歌舞伎では「鞠子」となっている。

この歌舞伎のクライマックスはこの峠での人殺しである。

金策尽きて江戸に帰る十兵衛が京に向かう按摩の文弥に鞠子の宿で遭遇する。その文弥は座頭(ざとう)の官位をとるための百両を持っている。

「京三界まで駈け歩き都合ができぬその金を持っていたのがこなたの因果、欲しくなったが私の因果、因果同士の悪縁が、殺すところも宇都谷峠…..許してくだされ、文弥どの」

 

 

「老ノ坂」と三人の武将

「老ノ坂」という印象深い名前の峠がある。場所は京都と福知山を結ぶ丹波街道上である。京都と中国地方を結ぶもので歴史的に有名な三人の武将もこの街道を走った。義経、尊氏、そして光秀である。

義経:摂津の福原に布陣した平家を討つため、京の丹波口を出発した義経はこの老ノ坂を越え丹波街道を直進して天引峠を越え、古市、三草山と進み、鵯越(ひよどりごえ)に出た。

尊氏:京で楠木、新田に敗れた尊氏は九州に逃れることにした。この老ノ坂まで後退し、昔義経が通った「戦勝の道」を敗走した。

光秀:居城の丹波・亀山城を出発した光秀軍はこの老ノ坂を登りきり、更に東の「沓掛」まで進み京に接近した。ここで本能寺を攻撃するという軍令を出したという。

 

有終(ゆうしゅう)の美

「易経」の六十四卦のなかに「地山謙」と呼ばれているものがある:

ー謙は亨(とお)る、君子有終、吉

意味は謙譲、謙虚、謙遜は美徳であり、この徳を持つものが「有終」つまり終わりを全うできるもの(君子)である。

また「詩経」には

ー初め、有らざることなし、克(よ)く終あること鮮(すくな)し

とある。意味は「スタートはたいていのものにあるが、みごとなゴール・インは稀である。」

そして「易経」の卦は

有終の美を飾る秘訣は「謙」にありと教えている。納得。

中国名言集:弥縫録」より。

 

強弩(きょうど)の末(すえ)

赤壁の戦いは「三国志」のハイライトの一つである。魏の曹操は荊州を破って南攻し、劉備は敗走した。蜀の軍師であった諸葛孔明は呉に赴き、呉蜀連盟で魏にあたることを説いた。呉の孫権は魏の勢力が強大であることからその呉蜀連盟の勝算には懐疑的であった。

その説得に諸葛孔明が説いたのが「強弩の末」である。魏の勢力が強いといっても魏から遠く南下した軍隊である。兵士は疲れているし、兵糧を確保するのも大変である。魏にあるときの勢力はないはずだ。それに加えて水軍の戦いではこちらが有利であることを強調した。

その結果、呉蜀連盟ができ、長江の赤壁の戦いの勝利となった。

「強弩の末」という言葉は漢の武帝の時代(紀元前100年ごろ)に韓安国が遠征の不利を主張するのに使った比喩による:

ー強弩(きょうど)の末(すえ)は魯縞(ろこう:魯の国の薄絹)さえ穿つことはできない。衝風の衰は羽毛を吹き立たせることもできない。

中国名言集:弥縫録」より。