門前雀羅(もんぜんじゃくら)を張る

陳舜臣氏の著作「中国名言集:弥縫録」を読み直している。

「門前雀羅(もんぜんじゃくら)を張る」という成語がある。「門前市を成す」というよく知られた成語があるので、それと似たような表現かなと思ってしまうが、それと反対の意味を持つ成句である。

雀羅は雀を捕獲する網のことで人の出入りのないところにその網を張る。つまり門前が雀羅を張れるような静かなところになっているということを表現したものである。

グロスター(Gloucester):米国最古の漁港

「パーフェクト・ストーム」という映画を見た。カジキ漁船が大型の台風(「パーフェクト・ストーム」)に遭遇して敢え無く沈没してしまう顛末を描いた映画である。舞台はグロスター(Gloucester)である。この漁港は米国で最古(17世紀のはじめ)のものである。イタリアやポルトガルから移民が多く、漁業が盛んである。しの中心には開港以来漁業で犠牲になった漁民の慰霊碑がある。

ボストンに近いアン岬の根元にあり電車でのアクセスが可能なのも面白い。夏のリゾートにもなっていて「クジラ見学会」もある。

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「マイナ保険証」問題私見

マイナ保険証が大きな問題になっている。極めて大きな影響が国民全体にかかる問題だからだ。大きな機構の変更には様々なミスが不可避である。「人為的なミス」も機構の変更上のミスである。大事なことはそのようなミスが起きたときにはどうするかを事前に検討して置くことである。ミスによに不利益にたいしても補償をすべきである。このように膨大な課題に無頓着なのはよほど
「デジタル無謬神話」に毒されているに違いない。デジタル処理は人間の「マチガイ」を「タダシク」実行するものである。

河野太郎デジタル相はこの機構の変更を通じて国民全体がデジタル化の恩恵を受けれるようになると強調している。この親切心の押し売りの極みはこの親切を断るとペナルティーが課せられることである。

マイナ保険証はもっと大きな問題を含んでいるようにおもう。マイナンバー・カードを保険証代わりにする制度は目的ではなくて、「普及」のための手段だ。そのせいか政府の取り組みは極めて安易なものになっている。現行の紙の保険証は「保険者番号」と「非保険者番号」でその保険証が唯一無二であることを保証している。名前や住は利用者の便宜のためにすぎない。そんなデータを「紐づけ」のキーとすることが間違いだ。最近では政府はマイナ保険証を使うときには紙の保険証をも持参するようにと勧告している。???がいっぱいだ。

またマイナンバー制度とマイナンバー・カードとは違うとも弁解している。
マイナンバー・カードの強権的「普及」策によって申請が増えてきてマイナンバー制度の骨幹をなす個人情報の厳密な管理・運用が全くできていない、
そのことが明るみにでたわけだ。システム設計の根幹に関わる問題である。

なぜそれまでしてマイナンバー・カードを普及させたいのであろうか?
マイナンバー制度には巨額な国費がつぎ込まれており、世界的にグーグルやアップルに大きく水をあけられてしまった日本のIT大企業にとっては独占的に儲けることができる機会である。「普及」すればするほど収益が得られる。
また国が管理する個人情報をマイナンバー制度を期に民間利用ができるようにする規制緩和が目論まれているからだ。
さらにまたこれを期に国民にたいする行政サービスを画一的(つまりデジタル化に対応できない国民の切り捨て、デジタル化に対応できない住民サービスの切り捨て)にしようとする意図も見える。

「任意」を「強制」にすり替えるマイナ保険証の仕組みは撤回すべきである。そして真に国民の利益になる「デジタル化」とは何かを再検討すべきである。

 

気になるサイエンス:奈良のシカ、おじぎ減った

久ぶりの新聞の記事である。

奈良公園にいるシカは野生動物であるが観光客から「シカ煎餅」をもらうなどヒトとの交流が深い野生動物である。「シカ煎餅」をもらうときぺこりと頭をさげるような仕草をする。コロナの影響で観光客が減ってヒトとの接触が減った結果この「おじぎ」仕草の習性が退化してきているという記事である。

この調査は奈良女子大学と北海道大学の研究チームによる。

画像はここ

 

 

仙台青葉まつり

昨日は仙台青葉まつりにいってみた。20日から始まったもので、初日は「スズメ踊り」で昨日は「山鉾巡行」があった。かなりの人出であった。

仙台青葉まつり

 

休憩の合間に
いっぱい踊った!

 

朱子における日食・月食の理解(続)

後漢(西紀元1~2)年の張衡は

「太陽に相対する衝で光がいつもあたらないのは地に蔽われているのである。」とかなり正確な月食の理解をしている。しかしこの理解は後世に伝わらなかったようである。

「朱子の自然学」(山田慶児著)によればある人が「月の中の黒い影は地の影ですか。」と朱子にたずねたののたいして朱子は

「先人にその説がある。考えてみると道理としてはありえよう。………太陽は月の本体にその光をあてりが中間にある地は一塊の実なるものだからその黒いかげりができるということだろう。」

と答えている。地が球形をしているという理解があればこの説明は説得的である。

朱子における日食・月食の理解

「朱子の自然学」(山田慶児著)によれば朱子(朱熹(しゅき))は朱子学の大成者であるが自然現象にも並々ならぬ関心を示していたという。ここでは当時天文暦の精度をきめた日食・月食の現象としての理解を紹介したい。

太陽も月も仮想的な天球上を動いているが、

「会合するとき太陽と月はその黄道と赤道(月道のまちがい)の十字路の交点で互いに出くわす。望のとき月と太陽がちょうど向かい合う。太陽な朔に食するわけは月はいつも下にあり太陽はいつも上にある。下のほうにある月に太陽が遮られる。望のときに月が食するのはむろん陰がに陽に対応すからだ。」

これは朱子の晩年の発言で弟子の沈燗の記録による。当時は月は自ら光を発しているものではないことは知られていた。天球上の月と軌道と太陽の軌道の交点のところに両天体があり、二枚の紙が重なるようになる。月が下になり太陽が上になるのを下から見る。これが日食という現象であるとという合理的な説明を朱子はしている。月食の説明は極めて思弁的説明に終わっている。